アイリス Irises(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
アイリス Irises(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホが耳切り事件を起こした後に入院した、サン=レミの精神療養院にて描かれた作品。療養院で最初に描かれたのがこの「アイリス」でした。彼はこの作品の他にも、あやめを題材にした絵を複数残しています。
糸杉のある麦畑 Wheat Field with Cypresses(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
糸杉のある麦畑 Wheat Field with Cypresses(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホがサン=レミの療養院にいた頃に、南仏プロヴァンスの田園風景を描いた連作のうちの一つ。彼は糸杉のある麦畑の風景を心底気に入っていたようで、弟のテオに「僕は糸杉のことで頭がいっぱいだ。ヒマワリの絵のように、様々描いてみたいと思っている。驚くべきことに、まだ誰も僕が見ているように描いている人がいないんだ。」と綴っています。
糸杉 Cypresses(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
糸杉 Cypresses(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
サン=レミの療養院にいた頃に描かれた「糸杉」の連作の内の一つ。ゴッホは糸杉について「線とプロポーションに関して言えば、まるでエジプトのオベリスクのように美しい」と評しており、とても気に入っていました。
アイリス Irises(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
アイリス Irises(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
サン=レミの療養院を退院する直前の1890年5月に描かれた作品。同じ時期に、同じ構図で異なった配色の静物画を4つ(2つはアイリスを、2つはバラを)描いています。
薔薇 Roses(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
薔薇 Roses(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
サン=レミの療養院を退院する直前の1890年5月に描かれた作品。ゴッホの描いた静物画の中では最も大きいサイズ(71×90cm)の作品でした。現在は薔薇の色が白っぽく褪色していますが、もともとはピンク色で、壁紙と補色の関係にあったことが分かっています。同じ時期に、同じ構図で異なった配色の静物画を4つ(2つはアイリスを、2つはバラを)描いています。
黄色い空と輝く太陽のオリーブ林 Olive Trees(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
黄色い空と輝く太陽のオリーブ林 Olive Trees(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
サン=レミの療養院にいた頃に描かれた作品。秋のオリーブ園の風景を描いています。ゴッホは1889年の6月から12月の半年間で、実に15のオリーブの木を題材にした作品を残しています。オリーブ畑は糸杉やアーモンドの木、ひまわりなどと同様に、ゴッホのお気に入りの題材のうちの一つでした。
糸杉と星の見える道 Road with Cypress and Star(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
糸杉と星の見える道 Road with Cypress and Star(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
フランスのサン=レミ=ド=プロヴァンスにいた頃に描かれた最後の作品。作品を描き終えた後にゴーギャンに送った手紙では、ゴーギャン作「オリーブ山のキリスト」と同様に「苦悩と不屈」をテーマに描いたことを語っています。一見すると美しい情景ですが、欧米では糸杉は死の象徴とされており、彼自身が自分の死が近いことを感じとっていたのかもしれません。
3本のひまわり Vase with Three Sunflowers(1888) - フィンセント・ファン・ゴッホ
3本のひまわり Vase with Three Sunflowers(1888) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホの代名詞とも言える「ひまわり」の静物画。南仏アルルの、通称「黄色い家」に居た頃の1888年に描き始め、7作品の存在が確認されていますが、こちらは最初に描かれた記念すべき一作目。「黄色い家」の作業部屋を明るく飾り立てるために6つの異なったひまわりの作品を描く構想でしたが、結局4つしか描くことができず、後の3つはオリジナルの模写です。
12本のひまわり Vase with Twelve Sunflowers(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
12本のひまわり Vase with Twelve Sunflowers(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホの代名詞とも言える「ひまわり」の静物画。南仏アルルの、通称「黄色い家」に居た頃の1888年に描き始め、7作品の存在が確認されていますが、こちらは3つ目に描いた作品の模写。耳切り事件を起こして入院した後、黄色い家に戻ってから描かれました。
オリーブの木々、背景にアルピーユ山脈 Olive Trees with the Alpilles(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
オリーブの木々、背景にアルピーユ山脈 Olive Trees with the Alpilles(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホが居たサン=レミ=ド=プロヴァンスから南に位置するアルピーユ山脈を背景にオリーブ畑を描いた作品。大きくうねる筆致が、夏の南仏らしい乾燥した厳しい暑さを彷彿とさせる作品です。
オーヴェルの教会 The Church at Auvers(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
オーヴェルの教会 The Church at Auvers(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
フランスのパリから北西に30キロほど離れたオーヴェル=シュル=オワーズの教会を描いた作品。プロヴァンスの療養院を出た後、ゴッホは亡くなるまでの最後の時間をこの地の農村で過ごしました。
丘を抜ける二本のポプラ Two Poplars in the Alpilles near Saint-Rémy(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
丘を抜ける二本のポプラ Two Poplars in the Alpilles near Saint-Rémy(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
サン=レミのサン=ポール療養院にいた頃に描かれた作品。療養院のあった場所からさらに南に広がるアルピーユ山脈を背景に、ポプラの木を描いた秋の作品です。入院して最初の頃は室内での制作に制限されていましたが、後に敷地の外に出ることを許可され、美しい南仏の景色を多く描きました。
ひまわりのある庭 Allotment with Sunflower(1887) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ひまわりのある庭 Allotment with Sunflower(1887) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホがパリに居た1887年に描かれた作品。オランダ時代の暗く写実的な画風から打って変わって、この頃から印象派や新印象派に倣って明るい色彩で描くようになりました。またひまわりを題材とし始めたのもこの頃で、パリではひまわりの静物画をいくつか描き、後に南仏アルルの黄色い家で描く7枚のひまわりに繋がっていきます。
オレンジ、レモン、青い手袋のある静物 Still Life of Oranges and Lemons with Blue Glove(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
オレンジ、レモン、青い手袋のある静物 Still Life of Oranges and Lemons with Blue Glove(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
この静物画は、ゴッホが南仏アルルの「黄色い家」で起こした耳切り事件の後に収容された、アルル市立病院を退院後すぐに描かれた作品。代表作のひまわりなどと同様に、コントラストを強調させた強烈な色使いが特徴的な静物画です。
オリーブの木 Olive Trees(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
オリーブの木 Olive Trees(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
1889年5月に5つのオリーブ果樹園を題材に描かれた作品群のうちの一つ。1888年に開かれた最後の印象派展で脚光を浴びたジョルジュ・スーラとポール・シニャックを彷彿とさせる点描法を駆使した空の描き方が非常に特徴的な作品に仕上がっています。
オリーブ摘み Women Picking Olives(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
オリーブ摘み Women Picking Olives(1889) - フィンセント・ファン・ゴッホ
サン=レミの精神療養院に居た、1889年の終わりに描かれた作品。同じ絵を3バージョン作成し、こちらはゴッホが自身の妹と母のために描いた作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されている1枚です。
緑の麦畑 Green Wheat Fields, Auvers(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
緑の麦畑 Green Wheat Fields, Auvers(1890) - フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホ終焉の地、パリの北西にあるオーヴェル=シュル=オワーズにて描かれた作品。初夏の青々とした小麦畑が描かれています。空と新緑、小道以外に何の芸術的モチーフも存在しない、純真な自然のみを描いた美しい作品です。
散歩、日傘をさす女 Woman with a Parasol, Madame Monet and Her Son (1875) - クロード・モネ
散歩、日傘をさす女 Woman with a Parasol, Madame Monet and Her Son (1875) - クロード・モネ
モネ一家がフランス、パリにほど近いアルジャントゥイユに住んでいた頃の1875年に描かれた作品。逆光で生み出される光の陰影の効果が、独特の臨場感を演出しています。この頃モネは妻のカミーユと、息子ジャンをモデルにして、風景の中の人物を描くことに専念していました。着物を着た妻、カミーユを描いた「ラ・ジャポネーズ」と共に1876年の第二回印象派展に出展されました。
サン=ラザール駅、ノルマンディーからの列車 Arrival of the Normandy Train, Gare Saint-Lazare (1877) - クロード・モネ
サン=ラザール駅、ノルマンディーからの列車 Arrival of the Normandy Train, Gare Saint-Lazare (1877) - クロード・モネ
フランス、パリのサン=ラザール駅を描いた作品。サン=ラザール駅はロンドンのクリスタル・パレスに代表されるガラスと鉄骨で織りなす建築の先駆けであり、そして工業化されていく社会の象徴でもありました。モネはこの年、サン=ラザール駅とその周辺をテーマに多くの作品を描き、そのうちの8点をその年に開かれた「第三回印象派展」に出展しています。
ヴェトゥイユの眺め View of Vétheuil (1880) - クロード・モネ
ヴェトゥイユの眺め View of Vétheuil (1880) - クロード・モネ
フランス北部の村、ヴェトゥイユの夏の情景を描いた作品。ポピーの花が一面に広がるセーヌ川の中洲から、教会の塔を見下ろす構図で描かれています。1880年の夏、モネはこの作品を含むヴェトゥイユの異なる風景を数多く描いています。
エルサレム・アーティチョークの花 Jerusalem Artichoke Flowers (1880) - クロード・モネ
エルサレム・アーティチョークの花 Jerusalem Artichoke Flowers (1880) - クロード・モネ
戸外での制作が多かったモネが描いた、数少ない室内の花の絵のうちの一枚。1879年の夏の終わりに妻カミーユを失ったモネは、その秋戸外では仕事をせず、花や果物を描いて過ごしました。エルサレム・アーティチョークは日本語で菊芋のこと。小さくてかわいらしい黄色い花を咲かせます。
ひまわり Bouquet of Sunflowers (1881) - クロード・モネ
ひまわり Bouquet of Sunflowers (1881) - クロード・モネ
第7回印象派展に出展された作品。日本の陶磁器に生けられたひまわりが、モネらしい大胆で活気のある筆致で描かれています。ひまわりと言えば1888年に描かれたゴッホの作品が有名ですが、彼が弟のテオに宛てた手紙の中でこのモネの作品について、以下のように触れた文章が残っています。「ゴーギャンは彼が以前観たクロード・モネの素晴らしいひまわりの作品より僕の描いた作品の方がいいって言ったんだけど、僕はそうは思わないよ。」
ボルディゲーラ Bordighera (1884) - クロード・モネ
ボルディゲーラ Bordighera (1884) - クロード・モネ
1884年にモネはルノワールと共に制作旅行に出かけ、生まれて初めて地中海沿岸の地を踏むことになります。この作品はイタリア北部の町、ボルディゲーラの木々と風景を描いた作品。この地についてモネは「今度の旅で僕たちが見た最も美しい場所の一つだ。」と評しています。
アンティーブの庭師の家 Gardener's House at Antibes (1888) - クロード・モネ
アンティーブの庭師の家 Gardener's House at Antibes (1888) - クロード・モネ
フランス南部の地中海、コート・ダジュールに面した都市であるアンティーブで描かれた作品。モネは1888年の4月から5月にかけて、芸術家の溜まり場となっていた宿場に滞在し、ここで30点ほどの作品を描きました。6月にはこの地で描いた10点の作品を、画商であったゴッホの弟テオに売り、それらの作品が展示された「アンティーブの海の風景」展はフランスで評判だったそうです。
小クルーズ川の急流、フレスリーヌ Rapids on the Petite Creuse at Fresselines (1889) - クロード・モネ
小クルーズ川の急流、フレスリーヌ Rapids on the Petite Creuse at Fresselines (1889) - クロード・モネ
フランス中部の村、フレスリーヌを流れるクルーズ川の流れを描いた作品。1889年の春、モネは小クルーズ川と大クルーズ川の合流点付近で20点ほどの作品を描きました。この時に描かれた内の9点の作品はほとんど同じ構図で時間だけを変えて描かれており、後に定番化する「連作」技法の先駆けとなりました。
春のジヴェルニー Spring in Giverny (1890) - クロード・モネ
春のジヴェルニー Spring in Giverny (1890) - クロード・モネ
1883年、モネはフランスの北にある小さな村ジヴェルニーに移り、1926年に亡くなるまでの実に40年以上をそこで暮らし制作を行いました。こちらは借地だったジヴェルニーの土地を購入し、家の周りで制作することに集中していた頃に描かれた作品。ジヴェルニーの春の光景がモネらしい快活な色彩で表現されています。
チャリングクロス橋、ロンドン Charing Cross Bridge, London (1901) - クロード・モネ
チャリングクロス橋、ロンドン Charing Cross Bridge, London (1901) - クロード・モネ
イギリス、ロンドンのテムズ川にかかるチャリング・クロス橋と、霧の効果を描いた作品。1899年から三度に渡るロンドンへの取材旅行で、約100点ものテムズ川の風景を描きました。陽光と霧の織り成す幻想的な光の効果が見事に表現されています。
パラッツォ・ダ・ムーラ、ヴェニス Palazzo da Mula, Venice (1908) - クロード・モネ
パラッツォ・ダ・ムーラ、ヴェニス Palazzo da Mula, Venice (1908) - クロード・モネ
水の都、イタリア・ベネチアの運河に面する特徴的な建物を描いた作品。70歳が近づきつつあったモネは、1908年の10月から12月にかけて妻のアリスと共にイタリアのヴェネツィアへ最後の大旅行を敢行し、「ヴェネツィアの眺め」と題した29枚の作品を残しました。
日本の歩道橋 The Japanese Footbridge (1920 - 1922) - クロード・モネ
日本の歩道橋 The Japanese Footbridge (1920 - 1922) - クロード・モネ
1922年頃に描かれた作品。晩年は白内障により色彩感覚が衰えたモネでしたが、命を燃やすようにジヴェルニーを描き続けました。この絵の上部には、モネのお気に入りであった藤の花がいっぱいに描かれています。支援者であり、友人でもある画商のデュラン・リュエルに宛てられた手紙にはこう綴られています。「私は力の限り仕事をしています。目が見えなくなる前に全てを描き尽くしてしまいたいのです。」